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泉谷メッツの歴史
昭和60年7月21日 奥山直弘氏、坂口末男氏、勝呂哲氏、阿部国彦氏の4名が発起人となり「グローブを持って集まれ」のチラシに集まった子どもたちでチーム発足。
(指導者4名、部員14名)。誰でも挨拶ができるようにと願いをこめたチーム作りが主眼。
小石がゴロゴロしている泉谷小学校のグランド整備から始まる。
昭和60年10月 初代選手全員でチーム名を「泉谷メッツ」と命名。
「メッツ」とは、ドイツ語で「仲間、出会い」という意味。
ユニフォームを揃える。備品を揃えるため、バザーなども行う。
昭和60年11月9日 奥山氏の「甲子園の土」をグランドにまく。
昭和61年 代表阿部氏。部員37名。千葉市南部地区少年軟式野球連盟に加入。
対外試合を行うようになる。10戦目に初勝利。
8月には鶴舞青年の家に合宿。
昭和62年 部員44名。
昭和63年 代表奥山直弘氏。部員60名。
5月の誉田春季大会1部優勝。7月の南部連盟会長杯で3位入賞。初めてのメダル獲得。
8月には生浜運動場にて合宿。
平成元年 代表宮田巌氏。部員67名。事務局制を敷く。
コーチと審判を分け、審判部を創設。初代審判部長に中村力氏が就任。
千葉市中央大会に初参加。
平成2年 部員74名。A・B・Cチームに分かれる。
試合以外の行事も盛んになり、メッツスキーが始まる。
8月には合宿以外に那須甲子国立少年の家で林間キャンプを行う。団旗作成。
平成3年 部員65名。
千葉マリンスタジアムが完成。
秋の中央大会開会式などではロッテの選手が指導する野球教室も開かれる。
新しい倉庫を購入。春の中央大会で敗者復活で県大会(千葉日報杯)出場を果たす。
夏に大会が重なるため、林間キャンプは中止。
この頃から、おゆみ野に泉谷メッツありと知られるようになる。それまでは、「いずみや」ではなく、「いずみたに」と言われたりした。
平成4年 部員73名。
Aチームは野月平監督が率い、一年を通じ接戦の連続。春の市連代表決定戦では初の優勝。 4年連続の中央大会出場を果たす。部員も70名を越す大所帯。
試合数も年間80試合近くになり、高谷審判部長をはじめとする審判部の苦労は大変なものがあった。
千葉市が政令指定都市となり、区制が敷かれた。
平成5年 部員65名。
地区連盟の再編成により、土気地区のチームを加えた緑区連盟が結成される。
11月秋季中央大会ベスト8。
平成6年 部員53名。サッカーブームに押されて、部員数減少の頃。
平成7年 部員46名。
平成8年 部員47名。
平成9年 部員61名。
平成10年 代表吉田栄次氏。部員69名。
平成11年 部員103名。
部員数急増。登録できない子も出てきてしまうため、新5年生は2チームに分かれる。
(有吉・扇田小がB-AOチーム、泉谷・小谷・金沢小がB-IKKチーム)
平成12年 部員140名。
イチロー効果もあり、野球人気が復活。 急激に部員数が増加。4年生も2つに分かれて活動する。
(有吉・扇田・小谷小がAOKチーム、泉谷・金沢小がIKチーム)
泉谷メッツ自体を分割する準備を始める。
平成13年 泉谷メッツと有吉メッツに分かれ、新たなスタートをきる。部員85名。
平成14年 部員80名。3年連続千葉日報杯出場を果たす。おゆみ野球場完成。
平成15年 部員67名。
平成16年 部員72名。YCよみうり旗争奪戦ダブル優勝。JFE杯1部優勝。
 成績  Aチーム Bチーム Cチーム
平成17年 部員94名。千葉市春季中央大会初優勝。
 成績  Aチーム Bチーム C・Dチーム
平成18年 部員108名。
 成績  Aチーム Bチーム Cチーム Dチーム
平成19年 部員117名。ポニー杯優勝。
部員数急増。登録できない子も出てきてしまうため、5年生はB・Mの2チームに分かれる。
 成績  Aチーム Bチーム Mチーム Cチーム Dチーム